本田宗一郎(HONDA創業者)のエピソード
書籍:本田宗一郎の3分間スピーチ
私にとって、日本の最盛期を語るうえで真っ先に、思い浮かぶのが、HONDAの創業者である本田宗一郎である。
本田宗一郎とFI王者アイルトンセナ
華々しい成功の真っただ中、日本の頂点に本田宗一郎がいた。そして、その”世界のHONDA”に育てた功労者の一人がアイルトンセナだった。
F1が最も華やかだった時でもあったのではないだろうか。
1.世界のHONDA
2.世界のHONDAになるまでの歴史
3.本田宗一郎の言葉、エピソード
1.世界のHONDA
バブルの頃、米国に出張する機会がありました。そこで、驚いたのが、米国でも、HONDAとSONYは尊敬される企業だったのです。中古車での新車からの値下げ率が最も低いのがHONDAだと聞いていました。それだけ、線品への信頼と人気が高かったのです。TOYOTAではありません。創造的企業が、当時、米国では評価が高かったのです。日本人として、とても、誇りに感じたことを覚えています。
日本の政治の愚戦略により、大戦となり、荒廃した国を復興させたのは、政治家ではなく、国民たちでした。
しかし、それも、50年もたず、またもや政治の愚策により衰退してしまいました。ただ、そこには様々な要因があったようです。米国による策略です。この件は、ここでは、おいておきましょう。
日本再興の象徴的人物の一人が本田宗一郎でした。高等教育を受けることなく、まさにのし上がっていったのです。
2.本田技研が世界のホンダになるまでの歴史
HONDAが世界に認められた技術
1945年に終戦を迎え、二輪からスタートしたHONDAは、1963年に四輪に参入したばかりの1970年に米国で排気ガス規制法であるマスキー法が制定されました。
そこで、何を思ったか国内でも駆け出しの弱小メーカーの本田技研率いる本田宗一郎は、世界進出へのチャンスと開発を始めたのです。
そして、何と、1972年、たった2年で、マスキー法をクリアするCVCCエンジン搭載のCIVICを米国ビッグ3を含む世界の名だたる自動車メーカーに先駆けて開発に成功したのです。
これが、世界のHONDAの始まりです。
HONDA セナとともに3度の世界制覇
HONDAは、それに、先んじて、1964年からF1に参戦しています。えっと、1963年に四輪に参入してたった1年での参戦ということですよね。
年表にしますと、
1963 四輪の開発開始
1964 F1参戦
1970 米国議会マスキー法制定
1972 マスキー法(排気ガス規制法)をクリアしたCVCCエンジンの開発に成功、世界初
1987 アイルトンセナの要望で、ロータスは、HONDAエンジンを採用
1988 セナが初のワールドチャンピオンになる
セナは、3度のワールドチャンピオンに輝いていますが、それは、すべて、HONDAのエンジンによるものでした。
1988年のロータスホンダ、90,91年のマクラーレンホンダ所属時の功績です。
伝説のF1レーサーでありワールドチャンピオンであった、アイルトンセナは、HONDAとともにあったのです。
HONDAとセナに関するエピソード
☆1988年、鈴鹿での勝利後、セナは、本田宗一郎に食事に招待されました。”勝ってくれてありがとう”と本田に声をかけられたセナは、食事中、涙を流し続けたそうです。
勝てなかったセナは、HONDAのエンジンを切望した。そして、世界チャンピオンになれたのです。しかし、本田宗一郎はお礼を言うのです。これが、本田宗一郎が愛される理由の一つです。
☆セナは、本田宗一郎のみならず、HONDAに絶大な信頼を寄せていました。
それは、開幕戦ブラジルGPで、エンジンに異常を感じてリタイアしたが、実際にはエンジンは壊れてはいないと判断されました。
しかし、ホンダのエンジニアがエンジンを分解してみたところ、パーツが壊れて、エンジンブローする寸前だったと報告しました。
要は、HONDAの責任ではないとされたにも関わらず、自ら解析し、事故原因を突き止めた結果、HONDAのエンジンに問題があり、自社の責任であるとの報告をしました。
これにより、セナは、ホンダのエンジニアに対する信頼を深めることになったようです。
この二本のエピソードは、本田宗一郎、HONDAのエンジニアの誠実さがあり、それを理解することのできるセナが、ドライバーとエンジンメーカーの間の契約上のドライな関係にとどまらず、そこに信頼関係が築かれることの大切さを示しています。これが、日本企業の神髄でした。今は失ってしまった。。。
3.本田宗一郎のエピソード
書籍・”3分間スピーチ”より
”だいたい優秀だということは、自分の好きなことをやって成功していくんだな”
遊びも同様に、何事も、徹底して没頭できない人間は、開発者として成功しない。自分が、銀行に勤めていたら成功しなかった。
バブル後に隆興してきたカリスマ経営者と言われる人がいますが、彼の経営理念のなかに、
”仕事をすきになれ”と、会社の都合に合わせ、そこで、楽しんで働く努力をしろと、社員にしこたま買わせてベストセラーになっている何冊もの本に書かれています。これは、本来のその人の適性や好奇心を無視したもので、企業経営の効率しか考えていないことがわかります。実は、ブラック企業と社員は告白。
”混んだ狭い道を通り抜けようとしているものの立場に立てば、歩き方は変わってくるものだ。”
相手の思考や行動理由を理詰めで考えることで、相手を思いやり、信頼できる人との関係が生まれる。
思いやり、信頼こそ大事ということ。彼の言葉には、人の心を動かす優しさに満ち溢れています。これを書いていても、涙がこぼれてきます。こんな人たちが会社を経営していたのが、高度経済成長期の日本でした。本田宗一郎は、その中でも突出していますが。
”人間は、食べ物だけでは生きていけません。どうしても納得という要素が必要で、その中身は、哲学的なものですよ”
上の者は、誰もが納得できる理念を持っていないと、何万人という社員を率いていくことはできない。
バブルが崩壊し、多くの大企業において、世界における競争力を失い、社員はリストラされた。
一方で、経営陣は、責任を取るどころか、報酬が、激増している。誰が、そこに納得できるであろうか。
わが社で、バブルが崩壊したとき、副社長が事業所を一件一件回っていた。
彼は、創業者とともに、世界的企業に育てた一人だった。私の事業所にも回ってきた。そして、彼の言葉はこうだった。
”この社の苦境は、すべて、経営者の責任です。どうぞ、こらえてください。”
と、そして、社員に頭を下げた。
副社長が退席し、私たちも解散となった時、単純な技術者たちの目には、うっすらと涙があった。
社員の経営陣への信頼と彼らの責任感が下の者へのモチベーションに繋がっていた。彼のために、会社のために頑張ろうと。しかし、そんな経営メンバーは、此の人が最後だった。
”人間として大事なことは、学歴とかそんなものではない、他人から愛され、協力してもらえる
徳を積むことではないだろうか”
仕事をするうえで、人の協力の有無で仕事の質が変わってしまう。
これは、松下幸之助も似た言葉を残している。
”大事なのは、愛嬌です。”
多少言葉は異なるが、ともに、協力してもらえる人となるという意味では共通している。一人で、事はなし得ない。協力してもらえるような人徳をつむ必要性を説いている。
利権や損得で関係を作り上げる今の社会が、成長していく筈がないのである。
”私は、世間でいう悪い子に期待している。そういう子こそ、可能性に満ちた本当の意味でのいい子なのだ。”
“前世紀の考えから一歩も出れない大人から、いい子だなんて呼ばれているようじゃあ、その大人以上にのびやしない。”
この悪い子というのは、法を犯すような人のことではなく、大人の期待に応える従順な子供という意味である。
その大人の作った、受験システムに適応する努力をし、大多数の意見や有識者の意見を鵜呑みにし、さも自分の意見とする半ば、思考停止になっているような若者が、これにふくまれるのではないだろうか。
例え、世の中が求める方向ではなくとも、自分の好きなことに没頭する子供や、時に、納得がいかなければ、立場が上の人であっても、正々堂々と意見のいえる、そんな若者に、彼は、期待していたのだ。
本田宗一郎の思いやりあるエピソード
本田宗一郎の秘書が、総一郎の妻に、
”インタビューの依頼が、入ったんですが、休日の仕事はすべて断られるんです。”
すると、妻は、
”彼は、休日はとても暇そうにしています。しかし、”休日に俺が仕事したら、社員も休日に働かないといけなくなるから、休日は、働かない”と言っていた。”
社員を休ませるために、自分も休日は仕事を入れなかったというのである。
今と当時での日本企業の違い
本田宗一郎は、技術的にも、経営者としても人間力においても天才であった。ただし、本田宗一郎らしいのは、経理が全くダメだった。納品しても集金するのを忘れるような人だった。それを担ったのが、共同経営者、藤沢氏であった。藤沢氏が引退を決めた時、本田宗一郎も追随し、自分も引退を決めたという。そして、その後、初めて顔を合わせた時、
”いい人生だったな””いい人生でしたね”という言葉を交わしたという。
この二人が作ったHONDAに中には、責任感、信用、信頼が浸透していた。当時は、日本中の企業内にもこれが根底にあり、日本の高度経済成長を促す原動力となっていた。日本人には、高い民度が備わり、誇りと謙虚さ勤勉さがあり、それを生かせるこのような企業があったから実現できたのである。
これが、絶望的な現代との決定的違いである。
最後にもう一つ、本田宗一郎の全国販売店大会でのスピーチを載せておく。
”頭とちんぽは、生きているうちに使え”
やだあ、宗一郎🤣いや、之こそが、本田宗一郎である。