日本のいじめの特殊性
ユングのいじめる理由
心理学者ユング(ユングのシンクロ二シティー)は、いじめは、自己の相手への投影が原因だといいます。相手を嫌っているようですが、実は、相手の中に見る、自分の影やコンプレックスを嫌っているといいます。
一方で、子供のいじめに関しては、自分の狭い価値観を正当化するため、それに反する相手を攻撃するとのことです。また、親の期待が子供のストレスになる場合など、親の影響が多分にあると考えられます。
大人社会のいじめ
日本における大人社会のいじめは、大きく分けて、妬み嫉みと支配欲からくるもの。ユングの分析と照らし合わせると、相手に見る自己投影よりも、寧ろ、自己の願望の形を相手に見る時にいじめを発動していないでしょうか。そして、支配欲は自分の狭い価値観を正当化するためそれに反する相手を攻撃する、まさに子供のいじめではないですか。
優秀な人がいたとします。その人が、自分の狭い価値観に合致した人なら受け入れます。例えば、一流大学大学院卒、強いて言うなら博士などの学歴を保持していたとします。それは、自分の目指してきた世界と同じレールの延長上にいる人です。それは、受け入れることができます。しかし、3流大学卒だったり、女性だったりしたらどうでしょう。少なくとも、女性差別はここから来ます。意外と、女性同士でもあります。男性は許せても、女性にだけは負けたくない女性がいます。
支配欲は、恐怖心と利己心からくるのではないでしょうか。自分を超えることは許さない、自分に有益に働けと。
大人社会が病む理由
なぜこんないじめが日常的に起こっているのか?
向上心がなく、自信を喪失しているからです。向上心があり、自信のある人が誰かをいじめることはありません。恥ずかしい人たち。そして、支配層にこういう人たちが占める社会がどうなるか。強者になびく社会の出来上がり。それは、自己を犠牲にしているのです。
自信がなくなると、自分で考えず、正しそうな人や多勢の意見を自分のものとするようになります。自分の意見など価値がないとも思っているでしょう。これは、容易にファシズムを形成します。プロパガンダで容易に世論を形成できるからです。ファシズムこそが、いじめの温床となります。
Will Smith 平手打ち!! これは、ウィルスミスが妻の病気を揶揄したコメディアンを舞台の上で平手打ちしたという出来事です。一方的に暴力が断罪されています。これは、今の世論、ロシア侵攻への批判を意識的に誘導しているということもあります。しかし、揶揄された心の傷はないがしろにされたままです。また、米国は、暴力である軍事侵攻で、他国を虐げてきました。リビアの軍事侵攻、大統領殺害、資源の略奪(資源国の驚きの豊かさ )は氷山の一角です。その国が、ウィル・スミスを批判していることに、論理が破綻していることは一目瞭然です。権力による論理のない支配はファシズムと言えるでしょう。ウィル・スミスは、権力に従う世論によるいじめです。この時、相手のコメディアンの非を権力側が強調すれば世論は変わったでしょう。
ユングの分析*究極のファシスト、ナチスは何故うまれたか
当時、劣等感にさいなまれていたドイツ。ゲルマン民族の優越性をうたうヒトラーに栄光の将来を夢見たのか、本来の闘争心の発露としてナチスに流れていったのか。言わずと知れたユダヤ人差別、大量虐殺は、究極のいじめ。
劣等感が、ファシズムに流れていったと分析。
今の日本はどうでしょう?
子供のいじめへのファシズム的対応
子供のいじめの要因は日本の大人と同じ。そして、世論の対応は、いじめられた側にその要因を探すというもの。なぜ、いじめられたのか。なぜ、いじめたのかよりも。
そして、時に教師は強者である、加害側につきます。いじめが事件となった場合、学校、教育委員会は強者をかばうべく、証拠の隠蔽を図ります。
事件を解決できない大人の無能と自信のなさ、自己保身が見えます。ここには、強者を善とするファシズムの思考が温存しています。単に、保身を図るのであれば、強者である加害者を断罪すればいいわけですから、それを弱者である被害者を黙殺するのはファシズムの芽といえるのではないでしょうか。
TV番組で紹介があった、海外のいじめ対策です。
海外では、いじめは加害者に責任
イギリスの対策です。監視カメラで、いじめの発生を始終監視し、発生した場合、親の責任とし、親への教育を受講する義務があります。韓国では、いじめた側が転校させられるようです。また、ニュージーランドでは、少人数学級で、個々の生徒に先生の目が届くようになっているようです。これすらできない日本は、子供への教育に関して国の責任をどう思っているのでしょうか?
日本からいじめをなくすには、世論誘導されない思考を一人一人が持つこと。
小さな成功体験を持つことで自信をもつこと。成功者の言葉はいつも同じ。やり続けることが鍵
ファシズムほど、恥ずかしいことはありません。子供たちのためにも自信のある人々による社会になることでファシズム化する現状から脱却すべきではないでしょうか。